仕事に就けないのもまた人生である、と気づかされた。
◇アウターを踏む前にインナーを踏め
昨日の疑問を解決すべく早速インナーだけで速度を維持する試み。
・元々クロスバイクに乗っていた、最初のロードバイクには105がついていた。これらの影響かクラリスで登ることのキツさが異常。
・実はインナーしか使っていない時期もありました(平地でも山でも)。しかし「アウターを踏めるようなれ」という文言に影響されて最近はアウターだけを使うようにしてました。これのせいで登りが茨の道に。
色々と振り回されながら自転車に乗っているわけです。
一番の問題は【アウター回せなくなった後のインナーが地獄】ということ。
今日の感触
・インナーだけで登る場合でも踏む力は必要になる。しかし、アウターほどの力は必要ない。
・インナーで回すと裏腿で踏む感覚がわかりやすい。
目標
インナーで踏み続けることができる脚を作る。
当たり前かもしれないが平地はアウター、山はインナーと使い分ける。
◇真面目に自転車の話しちゃった
登るのは好きだけど、速く登る必要性はないんだよね。まぁ、通りすがりの速くて笑顔で登る人になりたいだけ。
◇このブログは一言を考えるのに時間を要するから面倒だ
・私たちが知識の錯覚の中に生きているのは自らの頭の内と外にある知識の間に明確な線引きができないためだ。そもそも明確な線は存在しない。つまり、自分が知らないことを知らない、ということが往往にしてある。
・説明できるほどの知識を思ったより持ち合わせていない。これが「説明深度の錯覚」の本質。
・なぜ知るべきことのほんの一部しか理解していないのに、まっとうな生活を送り、わかったような口をきき、自らを信じることができるのか。それは私たちが「嘘」を生きているからだ。自らの知識を過大評価し、本当は知らないくせに物事の仕組みを理解していると思い込んで生活することで世界の複雑さを無視しているのである。
複雑さを認識できないが故に、それに耐えることができる。これが「知の錯覚」である。